おもロッケン_vol.9 山伏になってみたfrom山形県

2024.01.12

ロッケンのメンバーがおもしろいと感じた東北のモノ・ひと・場所などをリレー形式でお伝えする「おもロッケン」。第9回のレポーターはブランドトランスフォーメンションプランニング局の白田涼太さんです。 インタビュワーは東北のことをいろいろ知りたいロッケンの取材犬、“ミッチー”です。

 

ミッチー:

今日は、ロッケンの白田涼太に話をきくわん!

お話のタイトルを教えてほしいわん!

白田:

「山伏(やまぶし)になってみた」です。

ミッチー:

白田氏、ヤマブシってなんだわん!?

白田:

⼭伏とは、山の中で修⾏をする人のことだよ。山形の出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)は、日本屈指の霊山として有名で、羽黒山で山伏体験をしてきたんだ。

ミッチー:

まさか白田氏、ヤマブシに転職するんじゃ!?

白田:

いやいや、自分は、山伏になるためではなく、あくまで研修の一環として体験したまで。山伏体験という非日常に身を置くことで、企画のアウトプットの内容や質は変わるか?ということを検証するために参加したんだ。

先達(山伏の先輩)と拝詞を唱える参加者たち

階段を一段一段のぼりながら羽黒山神社を目指す

ミッチー:

「悟り」というより「閃き」を得ることが目的だった、というわけだ。修行と聞くと滝にうたれたり、炎の中を走ったり、つらそうなイメージがあるわん。

白田:

今回は、そこまでハードなことはしなかったけれど、私語をつつしみ、山の中を歩いては拝詞を唱え、唱えては歩きを繰り返し、約6時間ほど山の中で修行をしたんだ。途中、冷たい雨や風にうたれる瞬間もあって、穏やかな時もあれば、険しい時もあって、人生と似ているなぁと思ったね。このだだっ広い世界の中で、「羽黒山の山に落ちている枯葉の1枚と自分は何ら変わりない」と思ったりもして。「人間」と「自然」が別々のものではなく、自分が自然の中に同期していくような不思議な感覚を味わったよ。

ミッチー:

人間も自然の一部。犬も自然の一部。ちっぽけな存在にすぎないワン。

凛と佇む大木の中と黙々と進む

白田:

そんな感じだね。ちなみに先達(せんだつ:山伏の世界の師匠や先輩の呼び方)は「山伏体験とは、一度死ぬ体験をしてから、甦って俗世に戻る体験」と言っていたんだけど、食事を取らず歩き続けても不思議と空腹は感じなかった。それどころか、やがて体を動かして歩いている実感が無くなって、身体を置き去りにして精神だけがどんどん前に向かっているようにも思えて、「これが一度死ぬということなのか?」と考えたりもしたよ。

ミッチー:

いまの白田氏は、蘇った、NEW白田氏ってことかぁ。

白田:

ちなみに山伏修行では、先達の言うことに対しては【承う(うけたもう)】の精神で、あらがうことは許されない。先達曰く、「罪」や「穢れ」(知識や先入観など)を一切払って、全部を受け入れて修行をするんだ。思い返すと、【承う】とは、単純に先達の命令に従うための言葉ではなく、自然に対してすべてを【承う】ということかもしれないと思ったよ。

ミッチー;

拒絶したり、否定するのは簡単だけど、一度受け入れて咀嚼してみることは大切なことなのかもしれないワン。白田氏は、山伏体験を通して、何か、自分の中で変わったと思うような部分はある?

白田:

いつもより思考がすっきりしたかもね。そして何より、自分の心で感じたものは、ひたすらシンプルに【承う】でいい。うれしいときは素直に「うれしい」でいい。好きなものに出会えたら「好き」と言えばいい。やってみたいことがあったら、いっちょ噛みしてみればいい。時に、腹立たしいことも、怒っている自分自身も【承う】で認めてしまえばいい。そんな風に、自分の感情や考えに素直になることの大切さに気づけたことがよかったと思う。「素直になる」と言っても、もちろん他人に迷惑をかけない範囲で、だけど。

ミッチー:

山の中の修行と聞いて、肉体的な鍛錬をイメージしたけれど、山伏体験は、自然や自分自身と向き合う精神的な体験だということがわかったワン。白田氏、おもロッケンな話、ありがとう!

行衣に押された羽黒山神社の御朱印

山伏体験の後に宿坊で味わった郷土料理

今回のここ掘れワンワン(まとめ)

自分磨きは、足し算から引き算へ。

いまの時代、自分を啓蒙したりスキルを磨いたり、いかにたくさんの学びを得るかが重視されがちだけれど、日常から離れ、情報を遮断し、とにかく余計なものを自分から切り離していくことで大切なことや自分の芯を見つけ出すことも大事なのかもしれないわん!

(山伏体験は海外のコンサルやシェフなど、ビジネスマンに人気だそうです)